言葉の解像度をあげる、受信力をあげる

何かを書きたい、表現したいという欲が芽生えたのは、小学生の頃だったと思う。なんとなくカッコイイと思ったから?鉛筆を取ってみても、自分の中から出てくるものは、特になかった。言葉が浮かばない。

想像力の問題か、創作能力がないということなのか、と思っていたけれど、今思い出すと日記の筆が進まなかったことがハッキリと頭に浮かぶ。今日一日を振り返るのに、「XXして楽しかった」「XXで悲しかった」「XXがムカつく」とか、とてもとてもザックリした一言しか出てこなくて、その裏にある細やかな感情だとか背景だとか、手触り感のある情景を何一つ書き出せない。当時は、筆が進まないことを、どう表現したら良いのかも分からず、今日も書くことは何もなかったな、の一言で済ませていた。

感動の少ない、感受性に乏しい子供だったのだろうか。

小学校6年生で引っ越しをすることになった時、友との別れにはあまり関心を持っていなかった。かといって、新しい環境にも興味がなかったわけでもない。いや、むしろ、新たな世界、誰も知らない世界、「転入生」になれることを楽しみにしていたように思う。うむ、ココロの動かない子供というよりかは、興味の方向性が違ったのか。

自分の感受性に疑いを持ったエピソードとしては、小学校の卒業式のことも。周囲のクラスメートが涙する姿を見ながら、なんでそうなるのか全く共感なし。6年生の5月に転校しての卒業だったので、友人関係が希薄だったからだろうか。その小学校への思い入れが少なかったからだろうか。当時、「ウソ泣き」という単語もよく聞かれたように思うけれど、なんだか冷めた目で、そんな風に見ていたように思う。自分が全く涙しないことに、多少の疑いも持ちながら。

毎日毎日、ものすごく膨大な量の情報に、目から鼻から耳から口から手足から、いや、全身で触れている。今こうやって自宅でPCに向かう一瞬を切り取っても、目に映る光景には赤いソファーの上に丸めて置いてある黄色い布団が目に止まり、昨晩飲んだままのマグカップが書類が散乱しているテーブルに置かれているのに気付き、外で車が走る音や雨音が聞こえ、部屋の中では冷蔵庫と空気清浄機のモーター音がチリチリと鳴り、沸かしたばかりの大豆茶の香りを感じる。

その一瞬を自分自身でどう捉え、消化していくのか。言語化できなくても、無意識レベルで何かしらストックされていくのではないか?なんて思ったりもしなくもないけれど、いや、しっかりと意識的に捉えて表現していくことが、私にとって欠けていて、鍛えていくことが必要なことなんじゃないか、と、すごく思う。

表現したい欲求だけが渦巻いていて、どうアウトプットしたらよいのか分からずにモヤモヤしてたものが、いま、あらためてハッキリしたんだなぁ。

まずは、受信力をあげる。細やかに受信できていなければ、アウトプットするのも難しい。丁寧に丁寧に、やってく。